小栗虫太郎

1901年3月14日、東京神田生まれ。


黒死館殺人事件
講談社文庫 (1976.8.15)・・・(1934..)

この本(最初の単行本も同じ)では、最初に江戸川乱歩、甲賀三郎、 そして作者小栗虫太郎自身までもが序文を書いて作品を説明している。 こういう形式は初めて出会った気がする。
江戸川乱歩氏曰く『「黒死館」は如何にも夥しい素材の羅列であって、 ・・・普通の文学では、作者の知識は裏打ちとなって表面に露出しないのであるが、 この作では作者の驚くべき知識の山が、知識のままで目を圧して 積み上げられている。』 正にそんな、知識のオンパレードという感じの作品である。 明治3年、渡独した降矢木算哲(鯉吉)は、ベルリン大学で2つの学位を受け、 そこで結婚したフランス人テレーズ・シニョレと共に日本で暮らそうと思い、 結婚祝いにと彼女に合うような洋風建築物を、自分たちの帰国する前に イギリス人クロード・ディグスビイを派遣して明治18年に建てさせた。 これが、神奈川県高座郡葭苅にある降矢木家の館、通称黒死館の始まりである。 ところが、二人は共に日本への帰国の途についたものの、途中のラングーンに おいてテレーズが熱病で亡くなってしまった。
帰国後の算哲博士は、日本の大学でも神経病学と薬理学とで学位を受けたが、 教授生活には入らずにひっそりとした独身生活を始めた。 その間、有名な八木沢医学博士の唱える蓋鱗様部及び顳じゅ窩畸形者の 犯罪素質遺伝説に異議を唱え、その後一年間に渡って大論争を引き起こしたが、 その後ピタリと論争を止めてしまったというような出来事もあった。
ところが彼は帰国後も黒死館には住まず、5年後の明治23年には 大改修をしてディグスビイの設計を根本から修正してしまい、 そこには弟の伝二朗と筆子夫妻に住まわせた。 彼は又、ボヘミアの名操人形工にテレーズ夫人の等身大の自動人形をつくらせた。 さらに、海外から連れてきた、当事はまだ乳児だった四人の四重奏団を 一緒に住まわせ、彼らにはこれまで40年以上もの間、 一度も館から外へは出さずにいるという。
そして明治29年、筆子の入院中に、妾の神鳥みさほを引き入れた伝二朗は、 みさほに紙切刀で頚動脈を切断され、みさほもその場で自殺をしてしまった。 さらに明治35年、未亡人になっていた筆子が、寵愛した上方役者の嵐鯛十郎を 引き入れた夜、絞殺されてしまい、鯛十郎もその場で自殺した。 その後、異母姪にあたるかつての大女優、津多子(当時はまだ3歳)が 館の主であった時に、算哲の愛妾である岩間富枝が身籠り、 それが現在の当主の旗太郎である。 さらに30数年が過ぎた昨年、今度は算哲博士自身が自殺を遂げてしまった。 これら3件の事件には、動機と目されるものが一切なく、衝動性の犯罪として うやむやのうちに葬られてしまっていた。
そこへもってきて、四重奏団の一人、第一ヴァイオリン奏者の グレーテ・ダンネベルグ夫人が毒殺された。 支倉検事から知らせを受けた法水麟太郎は、捜査局長の熊城と三人で 捜査を行ない、犯人に迫ろうとする・・・



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